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越智・真弓の丘(斉明天皇陵)

「まうら悲しも越智・真弓の丘」ということで、越智岡の斉明天皇陵を目指します。




斉明天皇というのは中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)間人皇女(孝徳天皇の皇后)のお母さんです。



斉明天皇陵





ここの住所は高取町大字車木といいます。
この車木というのは、斉明天皇の車が来た→車木となったそうです。



そしてここには、孫にあたる建皇子(父は天智天皇、母は蘇我山田石川麻呂娘越智娘)も一緒に眠っています。





そして、もう一人斉明天皇の娘、間人皇女も一緒に眠っています。
間人皇女は斉明天皇の弟孝徳天皇に嫁ぎましたが実は兄の中大兄皇子(天智天皇)と恋人だったとも言われています。




当時の結婚は政略結婚が多い上に、皇女ともあれば親族以外の男性に会う機会も少なかったのかも知れませんね。
何だか悲しい気持ちにになります。






斉明天皇





紅葉の花って御存じですか。
紅葉は葉っぱを楽しむものと思っていたので、知らなかったのですが、花はちょっと変わった形をしていますね。
でも、色は紅葉が紅葉した時の色と同じですね。





紅葉の花





斉明天皇の御陵と同じ岡の少し下のところに大田皇女の御陵がありました。
大田皇女は天武天皇に嫁ぎ大津皇子と大伯皇女を生みましたが、体が弱く若いうちに亡くなってしまします。



大津皇子は大変聡明で見目麗しく人望があったために、持統天皇より無実の罪で殺されてしまいます。



それを悲しむ大伯皇女…。
本当にこの辺りは悲しいお話で胸が痛くなります。




大田皇女陵




美しく優しい方だったのではないでしょうか。
大海人皇子はたいそう愛おしがられたとのことでした。




大田皇女





ところで、道を歩いている途中に『玉藻』を見つけました。




玉藻



柿本人麻呂、泊瀬部皇女と忍坂部皇子とに献つる歌にこのような歌があります。





飛ぶ鳥の 飛鳥の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 

流れ触らばふ 玉藻なす 

か寄りかく寄り なびかひし 夫の命の たたなづく 

柔肌(ニギハダ)すらを 剣太刀 身に副へ寝なば 

ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも

逢ふと思いて 玉垂の 越の大野の 朝露に 玉裳はひづち

夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢わぬ君ゆえ



場所はこの越智の岡辺りではないでしょうか。
玉藻がゆらゆら揺れて絡まるさまを、夫婦の添い寝に例えているのですね。




泊瀬部皇女は天武天皇の皇女で、母は宍人臣大麻呂の娘です。
同母兄弟は忍壁皇子・磯城皇子・同母の妹は託基皇女。
夫は川島皇子。




川島皇子は大津皇子と友でありながら、大津皇子の謀反を訴えなければならない立場でもありました。





真実ではないと知りながらも大きな力に抵抗することが出来ずに仕方なかったのかも知れませんね
大津皇子もきっと分かっていたに違いありません。
そう思いたいですね。





泊瀬部皇女も辛い立場であったのでしょうね。




越智の丘は本当に悲しいお話がいっぱいで歩きながらも涙がこぼれそうになるのでした。




「まうら悲しも越智・真弓の丘」です。
このあと、真弓陵・岡宮天皇陵、束明神古墳、マルコ山へと続きます。



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